釣 塩 こ り い 竈 こ す 朝 つ に に る 凪 か 寄 船 に 来 ら は に な け む む
(いつの間にか塩竈に来てしまった、
朝凪のうちに釣りの船はここによって来て欲しい)
作者は,源融か在原業平のいずれかとされています。
源融(みなもとのとおる)は,弘仁13年(822年)に生まれ,嵯峨天皇の皇子で、のちに左大臣を努めた人であり,貞観6年(864年)陸奥・出羽の按察使として多賀城に赴任します。遙任(かたちだけで実際に赴任していない)であったのではないか?とも言われていますが、
道すがら途中の福島の信夫で
み み わ だ し ち れ れ た の の な そ れ ぶ く ら め ゆ も の な に ゑ ぢ く し に ず に り
古今和歌集
と和歌を読んでいる。多賀城の浮島に融神社があったり、塩竈の泉ヶ丘が融ヶ丘と呼ばれている事などからすると実際に赴任したものと考えられます。
融は、都に帰った後も目に焼き付いてしまったすばらしい塩竈の景色を忘れることが出来ずに,加茂川のほとり六条の邸に広大な塩竈の浦を模した庭を造り、毎月難波から30石の海水を運び込んで藻塩を焼く雅を楽しんだと言われています。
これまでの庭園は中国式であったものが、この庭をきっかけに島のある穏やかな風景が主流になり、この庭園が日本式庭園のルーツと呼べるものです。また、日本で最初のテーマパークでもあるのです。
融は、「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルの一人ではの一人ではないか、と言われています。醍醐天皇の皇子・源高明もその一人と言われていますが、融と光源氏の関係を思わせる遺跡が清涼寺などに現在でもたくさん残っているそうです。また、この「庭に造った塩竈」の話は、宇治拾遺物語や伊勢物語の中で語られ、後に彼が"河原左大臣"と呼ばれたゆえんです。
う 君 見 ら 煙 ま え さ 塩 た さ 渡 び 竈 え で る し の に か く し な も
(河原左大臣がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった「塩釜」は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ)
この庭の遺跡の一部が残り,後に1653年に石川丈山によって作庭されたものが二度の延焼を経て,京都東本願寺別邸渉成園(しょうせいえん)にあります。京都のビル街の一角に,時空を越えた緑の空間が広がっています。
塩を焚いた竈
融の作った塩竈の庭は平安の都で噂を呼び、これによって融の作った塩竈の庭は平安の都で噂を呼び、塩竈の浦が都人のあこがれの地として出来上がっていったようです。
塩 塩 み わ 竈 竈 ち が の の の せ 八 浦 八 浦 塩 く ま こ 十 吹 十 吹 竈 は が を 島 く 島 く の い き 都 か 風 か 風 浦 ず の に け に け に こ く 島 や て 霧 て 霧 ぐ は の り す は す は 舟 あ 松 て め れ め れ の れ ぞ 塩 る て る て 綱 ど 恋 竈 月 月 で し の 影 影 か き な し も
などなど、
塩竈に関連したもので現在317首を数えています。
まだ見ぬ遠い地への空想も多かったものと考えられますが、歌枕としてもたくさん「塩竈」と詠まれています。
のち百年ほど後に、当時の風流人「藤原実方」が陸奥の国」が陸奥の国赴任となり、都人はさらにみちのくへのあこがれを強くし、その後、西行が訪れ、
のちに松尾芭蕉の"奥の細道"へとつながっていったのでした。
また、能の世界でも”融”という題目で演じられています。の世界でも”融”という題目で演じられています。ここでは、融が幽霊として登場します。藤原氏との争いの中で人生を終えたのですが、やがて藤原氏が政治の中枢として活躍し始めました。そこで融の死後、六条河原の庭も藤原氏に献上せざるを得ない状況となってしまいます。そこで恨みに思った融の霊が、、、。と言った内容のようです。
に 塩 わ た 竈 が る と み と い か こ ふ ど ろ 所 六 な に 十 か 余 り 国 け の り 中 で
(日本の中で塩竈以上に美しい所はない)
伊勢物語